昭和44年10月22日 朝の御理解



 御理解 第75節
 『人を殺すというが、心で殺すのが重い罪じゃ。それが神の機感にかなわぬ。目に見えて殺すのはお上があってそれぞれのお仕置きにあうが、心で殺すのは神が見ておるぞ。』
 教祖様はこのように教えておられます。これは人間が幸せになっていくための、最高の法則とでも申しましょうか。人間が幸せになって行くための、最高の天地の法則だと思いますね。天地の中には様々な働きがあります。その働きの一番確か大なるものは人間氏子の幸せを願われる働きだと思うですね。人間が真実幸せになれれるための働きその働きが、私どもの信心によって、そこの所を知るというか悟るというか、ね。
 そこで天地のそうしたら人間氏子にも、真実の幸せを願って下さる働きを、私共が分からしてもらう。そこでそれにはどうでも私共が天地の法則というものを知らなければならん。おかげを頂かしてやりたい幸せにしてやりたいという、もうたゆまざる働きというものが、私どもの上にあっておる。ね。そのあっておるということを、先ず私共が知らなければならん。ね。なら知っただけではいけん。
 知ったらその働きをです、受け止めさせて頂けれる方法というか、すべというかいわゆるおかげの受けものを、作る事に精進しなければならん。ですからこの75節を頂きましてね、75節を頂いてここに人間が幸福になるか、不幸になるかという事を、ははぁこう言う様な事では人間が不幸になる。こういうことでは人間は救われない。このようなあり方になれば人間は必ず幸福になれるという事をですね。
 ここからほんとに私どもが分かるというか、ここんところが信じられなければ、信心によって幸せになるという基本が、そのないことになります。幸福になって行くための基本、ね。人を殺すというが心で殺すのが重い罪じゃ。それが神の機感にかなわんとこうある。神の機感にかなわんから人間が幸せになれん。いわゆる神様のお仕置きをあう。ね。なら神様のお仕置きというものはどういうことかと言うと、ね。
 そういうこことでは、力むとこんなに苦しい思いをしなければならんだろうがと、言うて下さることなんです、お仕置きということは。だから苦しい時にそこんところが分かって詫びる。これからは、幸福ではなくって、反対に、生かすことの働きを身に付けさして頂こうというところに、信心があるわけ。これはね(?そえぶ)目に見えて殺すのはといわゆる形の上での、言わば犯罪とでも申しましょうかね。
 様々な犯罪殺すとか、とるとか掠めるといったような、そりゃ形の上に表れたものは、警察法なら警察法というものがあって、その人間が人間を裁くことによって、お仕置きというものがあるわけ。罰金とか懲役とかということになるわけです。だからそれは、信心の上では、言わばそのうまぁ言うならば、大したことはないわけなんです。信心で言うならどこまでも心のこと。心で殺す心で傷つけるね。
 これが重い罪じゃと仰っとられる。またそれが神の機感にかなわんと仰っとられる。神の機感にかなわんそれが重い罪じゃと。だからそういう重い罪を、人が見とらんからというて犯してですね、おって人間が真実幸福になれるはずがないわけですね。そこで私たちは、そこんところのですね、心で殺すという心で傷つけるというね。ですから殺したり傷付けたりする様な事がないというだけではなくて、反対に心が傷ついておる人、いわゆる、傷心、傷心しておる人。ね。
 心がいつも憂鬱心がいつも苦しんでおられる。もうお先は真っ暗だと自分の心の中に、それこそ死んだも同様の状態にある人。そういう人達でもですなら生かせる術があるという事。ね、殺す事ができると同時に生かすことができるんだと。昨日ある婦人の方がお参りして見えました。私は金光様の事はなんにも分かりません。初めてお参りしましたがお尋ねしても良いでしょうかと言うて参ってきた。
 はぁもう何でもお尋ねて良いですよと。どういう事だろうかと思うておりましたら、私には娘が三人おります。33になる31になる29になる。ふたっつ二つ(  ?)せてずうっと三人の娘がおります。それが長女のその結婚しないためにです、長女が結婚しないために後の二人の娘達が、姉さんが嫁らんから私も嫁られんと言うて、いつも不平を不足を申しますっちゅう。
 たまたま縁談があるかと言うと、もう33にもなりますから、子供があるところであったり、何かそこにいわくがあるような、はぁそのまぁそんくらいの事は、辛抱せにゃぁと言うけれども、本人はそげんとこにゃ行かんといったようなふうである。妹達は二人の妹が31になる妹と、29になる娘がそのしきりにやかましく言うと。または妹からもらわれた事もございましたけれども。
 まぁ姉をやらん前に、ていう親のあれもあるし、姉への気兼ねもあって、どうしても、もう私ども夫婦は、もうこんな事だけでも悩みぬいておりますとこういう。どういうような信心をさして頂いたら、この娘たちがおかげ頂くでしょうかと言うところから、あらこれは金光様、初めてっちゅうばってん、これははじめじゃなかと私は思うたんです。どういう信心すりゃこの娘たちがおかげ頂くじゃろうかっち。
 ですけどまぁどこで金光様の信心しておるやら、していないやらそんな事はこちらには問題じゃない。問題は折角合楽に救いを求めて来とるのだから、助かってさえ貰えりゃいいのでしょうもんて。でそしてその事を私は神様にお取次ぎをさして頂きましたら、神様からね『姉を立て、妹を立てよ』と頂きました。姉を立て妹を立てよとどうでもねその一番、33になんなさる姉さんを、先にお繰り合わせを頂かにゃいけません。
 二人の後の妹たちはねそういう気になると、ね、姉もおかげ頂くなら自分たちも必ずおかげ頂くよと。姉を立てると姉を責めてばっかりおるもん。姉が行かんから自分どんが行かれんとこう責めてばっかりおる。チットなことは辛抱していかにゃ私だん愈々行き遅れてしまう。と言うてそのいつもそれにもめるもとになっておる。だからねしかもねしかもうんなら、子供のあるところとかいわくのあるところじゃない、ちゃんとそういうおかげの頂けるところにお繰り合わせを願いなさい。
 問題は姉を立て妹を立てという、そういう信心が分かる事だと。丁度あそこで遠方から参って来とった人たちが、丁度昨日の朝のご理解を頂きよる。その御理解がここへ流れてくる。昨日の朝のご理解は『相縁機縁』というご理解だったですね。信心は相縁機縁と言うご理解であった。ね。ほっで私はその話を御理解を聞きながら、この人もそれをまあ聞きながら、私の方の豊美の今度の結婚式のことをついて話させて頂いた。
 女がやはり34にはなっとらんに致しましても、20満27にもなりますと、やっぱり私どももおんなじことずっとつかえとる。けれども神様はね決して気をもむことは要らんと仰せられる。ね。売れそこのうたからというて気をもむなと。買いそこのうたものは必ずあると。だからそのお繰り合わせを願えと。しかもこうこう言うようなこういう事情で、こういうふうになったと言うて、言うおかげを頂かして。
 そしたらですね、その『姉を立て、妹を立てよ』ということ頂いた時にもうそのお母さんがです、ね、もうそれこそ涙をぽろぽろ流してから、はぁそういうおかげが頂けれる、と言うて下さっただけで、心が何か開けた。この事を妹達にも兄弟娘達にも話させて頂いて、ね、今までおかげの頂けんはずじゃった。皆が責め合うとった。今日の御理解で言うと、もういつも(?あんまん日)の中に相手を殺しよる。
 相手を殺すどころかもうその相手を傷つけよる。ね、これではおかげを受けられるはずがない、ということが分かる。先生実は私は田主丸教会の信者でございますと。ええそうですか。そんなら私が今申しますようにね、それこそ売れそこのうたからと言うて、気をもまずに、ただ信心のほうだけ一新なさい。そして人の心を傷つけたり、ね、殺したりする様な事ではない、ね、むしろ例えば娘達の心を生かす。
 または姉も妹達の心を、妹たちも姉の心を生かすような、心の状態にならせて頂いたら必ず決してもうのお子供のあるところやらなんかにやることはいらん。と言うて私はお話の半ばにここをミスをあけてから、私の控えに連れて行った。ちょっとまぁ来なさい。私がここへ座ろうとする時私の控えに、あのいわゆる豊美が今度もって行きます、見事な夜具が布団ですが、私の部屋いっぱいありますよね。
 ほんとに見事なこれ以上最高な布団はないて言う布団。きじわで(?)あのいってあの縫うておるほどしに立派なもんである。座布団が十客分とそのお布団が二重ね四重ねですかね。分厚い布団が二つずつもある。ですから私の控えがいっぱいになると。だからそれがこう並べてある所へ私が連れて行ってからね、こういうおかげが頂けますよって言ったらもうその布団をなで擦りする様にしてから涙流してよる喜ばれました。
 これはね私が私がおかげって、おかげを受けておる事実をそこに見せたわけです。ね、私が口であんたにおかげになるばい、おかげになるばいと言いよるのじゃなか、娘が3人おったっちゃええて。上から順々にちゃんとおかげ頂く。こういう状態にさえなりゃ。ね、しかも、こういうおかげになるよと。私が話したつはしらごつじゃなかろうが。私も今そこで、見てきたばっかりじゃから。
 あなたも見てみなさいこういうおかげが頂かれる。と言うてその布団を見せましたら、いまも言う様にその事を大変喜ばれて、又ここへ帰ってきてまた私が暫くご理解さして頂いたね。ですから問題はね神様がいかに、うんならおかげを下さろうとしておってもです、相手の心を立てようともしない様な心ではおかげにならんよと。姉を立て妹を立てということは是はうんなら親なら親が娘達を立てると言う事にもなるのだ。
 問題は家族全体が、もうこの事を聞かせましたら、家のお父さんがどんなに喜ぶか分かりません。男親は私より黙っとりますばってん、私よりも大変その二人よりますと、そのことをが悩みの種でございます。主人がどんなに喜ぶか分かりません。しかしまぁ喜ぶとは早すぎるよ、おかげ頂かにゃならん。問題は私が言う事が分からして頂いて、そりゃ田主丸の教会でもいいから。
 いいね娘達を言わば責めるような暗くさ、心を暗くさせるようなことを言うたりしたりせずに、兄弟達もその気になって、姉を立て、妹を立てるような思いになってこなければ、おかげにならんのだからねと言う。またどうでもお参りさせて頂きますと言うて、あの帰られたんですけれどもね、はぁもう相手をですね、相手のここ口には言わんでん、ずうっと責めよるもん。
 もそれでは例えば心で人を殺すということが重い罪じゃと仰るでしょう。だからその罪、その罪状だけだってその人は幸せになりませんよね。それが神の機感にかなわんと仰るのじゃから。ですからですよ、いわゆる人間が幸せになって行く事のための、天地の法則をこの75節に、このように説いておられるわけなのです。天地の中には人間が幸せになるようにと、ほんとに幸福になるようにという、神の働きが大事だと。
 そういう天地の働きの中にはです、人間の助かりということが一番大事だと。ね。と、例えば願うておられる天地の親神様がです、心で殺すのが重い罪じゃと仰る。結局心で殺すもんじゃから、そこに罪状にとがめられなければならない。言わば死にさいなまれる訳なのである。それがどういうことかと言うとですね、この苦しみこの苦労で、少しは分かったかと、分かってくれよと。殺すのじゃなくて今度は反対に、人を生かすような心で、生かすことの稽古をさせて頂くことによってです。
 人間の幸福というものはあるのだから、そこんところをここには言うてありませんですね。殺すとはいうてありませんけども、うんなら殺すことも重い罪なら、生かすことは、御褒美を受けられることでしょう。それをご神徳というのじゃ。おかげというもの。だから人をですね。例えばその、その兄弟がですよ兄さんがいつまっでん選り好みばっかりして、いかんけん、私どんがいかれんち言って、いつも思うて相手を殺したり、傷つけたりする。ね、妹さんに話がちょっとありますとですね。
 姉達が、すぐどこか部屋さん行ってしまうそうです。ね、誰か一人でん( ? )やると、もうツーっと向こうさん出ていってしまうそうです。兄弟達が。そしてどういう風なことを思うたりしておるかと言うと、その今も言うように責め合うた心ばっかりを使うておるに違いない。ほれで、兄弟達に言いきらんな親に言うわけです。まるきり親が悪かけん自分達の縁がなかごと言う。姉さんが嫁らんけん自分どんが狂うように、もうみんながそんなふうで口には言わん、そんな事じゃから、ねぇ。
 けども心でいつも言わば責めおうておる事は、心で傷つけおうたり殺しおうたりしておるから、そういうふうでおかげになる等がないじゃないかと。ね。ほんとに今日の合楽の先生のお話をです、兄弟達に言うて聞かせたら、兄弟達も心が助かることだろうと、思うて一ぺん連れてお参りをしますから、もう先生から直々いっちょお話してやって下さい、と言うて昨日帰られました。これはそれだけのことじゃない。
 もう全てのことにです、ね、はぁお父さんが家内がと言うてから、ね、とっつくつかみ合うちから喧嘩はせんでっちゃ、心でいつも喧嘩しよると。これでは絶対相手を殺しよるから、その罪状だけだってですね、もういわゆる重い罪ぞになっておる訳です。その重い罪を犯しとってから、どうぞおかげ下さいっち言うて、どうしておかげ下さるはずがないじゃないか。形で犯す罪は、ね。
 ちゃんと警察法なら警察法によってとわれて、それぞれお仕置きを受けるけれども、心で心で殺したり生き続けたりするのは、神が見ておるぞとおっしゃる。神様が見ておられるからこそ、そこに苦しみがあるのと難儀があるのと。それは、言わば責められとるのです、さいなまれておるのです。何故責められるかと言うと、自分が心で傷つけたり殺したりしよるからなんだ。
 そこでそういうことではなくて今度はそれとは反対に、ね、生かすことに勤め生かすことのすべをです、信心によって分からして頂いたらお徳を受ける。人間がほんとにくる。だからそこんところを、神様はおかげ受けてくれよと。だからね人間が幸せになって行くことの上ための、第一の天地の法則です、この75節は。ほんとに幸せになりたいならです、ここんところ分からなければ、人間の幸せは、どんなにさかたんぼうったっちゃ、おかげは受けられんのです。
 私は昨日ちょっと心にひっかかることが、なるほど理屈を言えばそうだと、道理から言やぁそうだけれども、さぁここんところが、おかげ頂かんならんところだなと、今朝からまた、改めてこのご理解頂いて思わしてもらっていることがある、と言うのは。昨日一昨日のご大祭に善導寺の親先生が、皆さんにもお話なっとりましたように、24日は久留米の教会のご大祭である。勿論ここと同じに立教110年のご大祭。
 だから合楽からどれだけ参ってもらうじゃろうかと。今度は参拝者全部に、お神酒を一合ビン一本ずつあげようと思いよるから、人数が分からにゃ困るから人数を早く知らせてくれとこういうことであった。私はそのお神酒を一本ずつやるけんち言われた時にですね、なんかお神酒もらえるけん、合楽がばさらか参って来たぁごたるふうに思わる、嫌な感じがしたんです私実際。
 あれがですね有り難い、金光様のお書き下げかなんかの、短冊かなんかをあげるっちゅんなら、はぁもうどうでんこうでん参って頂こうという気がしますよね。けれどもお神酒を一本ずつやると言われたら、何か合楽の者も、お神酒やるけんばさらか参って来たごと思われようような私は感じがして、ほんとに気分があんまり良くなかったです。昨日総代さんからみんな、私をが先頭に立って、大祭の御礼に出らして頂いたんです。
 たら親先生が総代さん達に言われることが、合楽に、合楽が今度五十人はあてにしとるとこう。だからはよ信者さんところはよ知らせちくれ、ち言いなさるけん、私はもうとっさに言いました。心に思うとったからです。ね先生そげなことは出来ませんち言って、私が申しました。なぜかって言うなら、合楽の親教会である三井教会ならまだいざ知らずですよ、けれども、私にとってはもう親の親で、じいさんの教会です。
 こっちはもらわんなんほうならなんばってん、こっちからそのうなんて言うことなかっと言うような考え方が、私があるわけです。ねぇ。ほりゃあんたもう孫であるために、親にも尽くさんならん、ジイにも尽くさんならんっちゅうならとても、孫はもうへとへとせんならん。それだけでも、もう(  ?  )はきらん。そうじゃのうてもさあ立教百年祭に、あれだけたくさんの者が合楽からお参りさせて頂いて。
 それではのうても二十日にはあれだけ一生懸命、そういっぱいなおかげ頂いとるとに、今また今度は、合楽からんなら、なら50人もお参りすると言ってもできるはずがなかけん、私、もう親先生そげなことはできませんち、とっさに、まぁ、私言わせて頂いたんですけれども。帰ってから昨日、反省会があっておるところでまぁ、秋永先生のことをあんたどげん思うかと言うて話しました。
 そうですな成程ご本部で百十年の記念祭が行われた。そのご延長をですそのご延長を銘々の教会で、させて頂くだけでしょうが。言うならばどこの教会だってつういっぱいのことをするわけですよ。ですからとてもよその教会のことなんか手がでるはずがないです。今度の例えば、ね、合楽教会の記念祭、久留米教会の記念祭て言うなら、お祝いをかねて、そりゃ五十人百人でんお参りできるです。ね、
 手続き関係である親の親ですから。けども今度は立教百十年の記念祭と言うのは、もう全国の津々浦々にある教会の全てが、そのお祭りは大なり小なり一端に使いにならんとば、百十年の記念祭だからってって、よその教、親教会にどうして勤められるか。と言うおんなじ私の意見と、同じ様な事を秋永先生が言われるわけです。のうあんたもそげん思うの、私もそげん思うよと。
 だからまぁせいぜい、合楽から参って五名でしょうねっちこう言う。十分の一に減ってしもうた。けどそげなこつ言うちから、そげなこつはできんばいと言って私が、いくらなんでんね。たら親先生が五十名ち言よらっしゃるけん、せめて半分ぐらい参らにゃ、そりゃもう親先生に対してもすまん。参らにゃでけんとは言うたものの。と言うてまぁけれども、だぁれん参ま、はいっち言うちから手あげるもんもなかったけん。
 お参りする気分がないごたるふうでしたけれどですね、例えばふんなら普通の大祭でん、やっぱ皆も久留米にゃお参りしよりますですからねぇ、けれども立教百十年の記念祭を櫛原だけでなさるのなら、皆んなお参りせなきゃでけん。けれども各教会教会で今度だけは、いっぱしのお祭りを仕えんならんとば、よそに手の出る筈がないとほんと言うと。うんおかしな所へ力み、今度は親先生も力み力んでござるなと私は思うたです。けれどもです今日はこの、75節の。
 今日のご理解を頂きよってから思わせて頂く事なんですよ、ね。私がもうこげなこつはできません、ち。昨日言うたつは親先生の、心を恐らく傷つけただろうとこう思います。はぁあんた方にはあげん、沢山な信者がおってから、五十人位何のっち言いとうあんなさったろうとこう思う。そこで私は思いますのにです、相手の心を殺しゃせんでも傷つけたり、暗くしたりする様な事では、信心にならないと言う事。
 と言うて八方美人的に、まぁいい加減に合わせとくということでもいけない。ね、そこで、私が思うのはですね、結局、和賀心なんです。和らぎ賀ぶ心なんです。理屈はそうだけれどもです、ね、そういうふうに自分の心に、それが響いてこない。嫌な思いに響いてこない、だけの心です。お参りしたからと言って、こちら信心でお参りすりゃ、決して損するこっじゃなか。有り難いこと。ね。
 だからその和賀心を、ここでならどういう風に言うとるかと言うと、馬鹿と阿呆で道を開けと言うことになってくる訳なんです。もうこっちがもう、なんでんハイハイっち言やーもう、ほんなこてもう、親んびびんちょこに乗るごたること言うちから、というな心では、馬鹿と阿呆じゃないかと。ね。あ、そんなら、いっちょできるだけでおかげ頂きましょうという気になったらいいとぞ。
 馬鹿と阿呆にならせて頂く、馬鹿と阿呆にならせて頂くそこに意地がないね。まぁ親先生が仰るように五十名はでけんにしてもね、そりゃ十名だって二十名だってですね、折角お参りさせて頂くならです、本当にその辺の所を馬鹿と阿呆での気持ちになってお参りをする。和賀心でお参りを受けていく。和賀心和らぎ賀ぶ心この和らぎ賀ぶ心がある時なら、そうやってそれを理屈で思うたり、言うたりする様な事なかろう。ね、
 そこからおかげの頂けていけれる道なんです、金光様のご信心というのは。久留米にお参りしてからいくら電車賃が要った、お初穂が要った。一合ビンのお神酒どん一本貰うたっちゃ、何になるかと言う様なじゃなくてですたい、ね、そういう和賀心になるという事そういう時に、親先生の心を暗くする様な事を言わんですむ私になるという事。そこはここがいっちょ馬鹿と阿呆になる所だと、もう一段大きゅうなるという事。
 そういう心の状態はです、今日のご理解から言うと、人間が絶対に幸福になれれる天地の法則なのです。そういう心の状態にならせて頂くということが、ね、そりゃ理屈、理屈言うていわば考えてただけでも、すぐそれが馬鹿らしいことだと思う様な事なんですけれども、その馬鹿らしい事を、馬鹿らしい事と思わずに、こちらがいわゆる馬鹿と阿呆でそれを受けていくと言うこと。おれがちょいと言うたけんで、ほんなこて五十名参って来たというて、例え笑われたっちゃいいじゃないかて。
 私はほんとにですね、そういう馬鹿と阿呆にならせて貰う、いわゆる和賀心にならして、和らぎ賀ぶ心っというのは、私はそういう心だと思うんです。どういうことを言われても障らない心なんです。ね、そういう和らぎ賀ぶ心っというものが、自分の心の中に頂けるときにです、そういう心で人の心を生かす事が出来る。人を傷付ける事がない。いや、傷ついてる人があるならば、それを癒してやることができる。
 心が真っ暗なってる人を明るくしてあげることができる。和賀心といういうのは。または馬鹿と阿呆になるということは。しかもそれはどういうことかと言うとです、人間が真実幸福になっていく事のための、それは法則なのだと言うこと。ね、これはもう絶対の理なんです、だから法則と言う。ね、人をあやめたり心でです、ね、心で傷つけたり心で殺したりするのは、重い罪じゃと仰るように、それが反対の事になるのです。
 私は今日この75節を、そういう素晴らしい天地の法則というものを、この様な言葉で表現しておられるという意味合いにおいて、初めて今日気づかせて頂いた。その人間が真実幸福になっていくことのためのですね、法則をねお互いが体得しなければいけん。それにははぁ人どん責めよってから、おかげの頂けるはずがないと悟らせて頂いて、そういう気持ちを一掃しなければ、ね。
 そして反対に私の心の中に馬鹿と阿呆にならせて頂けれる心と、和らぎ賀ぶ心を頂かして頂くためにはどういう信心さして頂いたならよいかということに焦点を置いて行くならばです、これがなら重い罪でじゃなくてから、そういう言うなら特別なご信用、特別のご褒美が出ること間違いない。それをお徳と私は今日は申しました。ね。ですから人を殺すというが、心で殺すのが重い罪じゃという事ですから。
 人を生かすということがです、心で生かすことになるからお徳を受けるのじゃ、ということになるわけでしょうが。ね。しかもこれは絶対のものだと言うこと。いわゆる天地の法則だということ。人間が幸せになって行くための法則を、まずたい、どのように角度から勉強しまたは頂いて、分からして頂かにゃならんと同時に、自分が今苦しんでおるなら、ね、死にさいなまれておるようなものを自分の心に感ずるなら、自分が先ず殺しておることの、傷つけておることの、お詫びを心からしなきゃいけんです。
 そして、これからは傷つけるようなことは思いません、言いませんと言う生きかた、ね、姉を立て、妹を立てといったような、おかげを頂かしてもろうたら、そこから、ね、それこそ、買い損のうとる人があるのですから、売れ損のうたからと言うて気を揉まんでも、ちゃんとおかげを頂けれる道が、そこから開けてくる。今日のところは、もうそこんところを、そういう人間が幸福になる為の法則であると。
 ですから法則を曲げてです、どうぞおかげ下さいって言うておるのはですね、法則を曲げて、例え悪いことをしながらです、罪をちっとばかし減じて下さい、て言っているのとおなし事です。ならそうふうな信心ではなくて、ほんとにそこんところを体得さしてもらえ、分からしてもらう信心にならなきゃならんと思うですね。
   どうぞ。